お茶と暮らし

幕末の失業危機を乗り越えて

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と謳われた大井川。今でも国道に沿って大井川に架かる橋を歩いて渡ることができますが、川幅の広さと風の強さに何度も心が折れそうになります。

現在では国道1号線(島田金谷バイパス)や蓬莱橋(明治9年に架設された木製橋、ギネスブックに認定される)などがかかっていますが、昔は川を渡るのに血気溢れる「川越人足」と呼ばれる人たちが1200人以上も両岸に待機していたと言われています。江戸時代までは橋を架けることも禁じられていたので、人や荷を肩車や輦台(れんだい)など人力で渡していました。
更に雨の日や上流域で雨が降り続くと、南アルプスの険しい山岳地帯からさまざまな支流が一つになって大井川へ合流し川幅目一杯に濁流が溢れます。そのため川を越えることは命の危険を伴い、何日も足止めされることがよくあったと言われています。

掛川の粟ヶ岳(532m)へ登ると東の方角にかけて美しく茶畑の広がる牧之原台地を見ることができます。そしてその向こう側に雄大に流れる大井川を眺めるのはまさに壮観です。
いまでは何気なく見られる景色ですが、なぜこの地域にこれほど茶畑が広がっていったのでしょうか。そのヒントがなんとこの大井川を命をかけて渡していた川越人足の人々の大量失業と関わってきます。

長く続いた徳川の時代が終わりを迎え、幕末から明治にかけて江戸時代のあらゆる制度が廃止されていきます。当時まだこの川を渡ることは容易ではなかったと思われますが舟を渡すなどして、明治3年に川越制度は廃止されてしまいます。これまで川を渡るために人々はその時々の相場で川札を買う必要があり、それらを主な収入源としていた人たちは一斉に失業しました。他に職もなく、生活の糧を失った体力も有り余る川越人足たちが行き場を失い地域に混乱を招きました。

また一方で横浜開港によって茶の輸出取引に着目していた明治政府は勝海舟のアドバイスもあり、一部の旧幕臣などを中心に茶畑の開墾を初めていました。そのような背景のなか1000人以上もが失業状態となった川越人足を代表し、仲田源蔵(金谷出身)が立ち上がります。
源蔵は自ら髷(まげ)を切り落とし、土地を売って資金を作り救済に奔走し、並々ならぬ覚悟で明治政府へと大量失業者の救済を直訴したと言われています。明治政府はこの嘆願に応じ、救済金の交付と茶畑を開墾する世話人数名(後に茶業家・衆議院議員となる丸尾文六なども含まれる)を申し渡し、大量失業者であった川越人足は、一気に豊富な労働力と転じ牧之原台地に広がる原生林から次々と木を切り出し、土を耕して辺り一帯を茶畑へと変えていきます。

上京した当時、29歳だった源蔵が私財を投じ、地域救済に生涯を捧げるという行動がなければこの景色は見られなかったかもしれません。
いまではあたりまえに見られる美しい茶畑も一人の若者の行動と決意によって現在へと引き継がれています。

【第1話】幕末の失業危機を乗り越えて(おわり)

【第2話】
日本茶を世界へ送り出せ
国を支える茶輸出業(明治期)

幕末から明治へ、時代の転換期を生き延びた士族や川越人足の働きによって日本の茶業の礎を築くことに成功する。東海道鉄道線の開通や清水港の開港によって明治時代の養蚕・茶などは外貨を獲得し国を支える基幹産業としての運命を託される。