お茶と暮らし

今年、最後の新茶

70年以上の人生、その中でたくさんの時間をお茶と共に過ごしてきた。

お爺さんの時代にはこの峠を下ったトンネルの入口で、人々が多く往来する東海道沿いでこの辺りでは名物の「子育て飴」を商売にしていた。いつしか街道には国道が通り、トラックや自家用車だけが行き交うようになって昔のように飴は売れなくなった。若い頃は農家になりたい訳ではなかったけれど、商売はやめてこの土地でお茶を始めることになった。

嫁が来て、お茶もよく売れる時代がやってきた。毎年のように改植をして茶畑はどんどん広がっていった。当時はまともな機械もないから、自分たちで木を切り倒して鍬で土を返しながら植えていった。

お茶は地域一帯でどんどん大きな仕事になって、とてもいい時代を過ごした。

20年程前、子どもたちが大学を卒業して手が離れると茶工場の古い機械を2人で操業できる最新のものにした。手元のお金も、人生の残りの時間もお茶にささげるような気持ちで。

時代は変わっていく。ペットボトルをコンビニで買うようになると急須で新茶を淹れるような若者はいなくなった。お茶の相場も下がり続け、どんなにいいお茶を作っても昔より安い値段でしか取引されないようになった。

機械も入らないこんな急斜面の茶畑はとにかく手がかかるし体もたいへん。自分たちも若かったし、手伝ってくれる人も仕事の合間に楽しみのように来てくれた。けれど、もうこの歳でいつ終わるか分からない。

姉は隣の町へ出てここを離れたけど、いまでもたくさん知り合いにお茶を売ってくれている。息子は東京で就職して家族と暮らしている。私たちは本当に地域の人や家族に恵まれてとにかくこれまでお茶を続けてこれた。

本当は来年の1番茶までやってお茶をやめようと考えて、でもやっぱり2人でゆっくり話をして、もう歳だしいっそのことこの新茶が終わったらそれを最後にしよう、そういうことになった。

だから今年の新茶で最後。

埼玉や横浜なんかから、わざわざここへ来てくれる人もいる。
私たちもいい場所だと思う。
まとめてお茶を何キロも買ってくれている人たちは、来年からどうしようなんて話になる。でも、もともと茶農家になりたかった訳じゃなかったし、茶工場も機械メーカーの人が仕事が落ち着いたら引き取りに来てくれることになってるし、それでいいのかね。昔のようにもうちょっとお茶が売れてくれれば、考えないこともなかったんだけどね。

今どきこんな機械も入らない茶畑でお茶をやりたいなんて若者はいないよ、そんな人は。私たちは、いい時代を過ごしてきたから。